あの頃の銀座

私は銀座生まれの銀座育ちだから、大正中期から記憶がはじまって、昭和十六年、応召するまでの銀座を知っていることになる。しかし、鹿を追う猟師が山を見ないように、案外、銀座のことを、客観的には知らないようである。
昭和十年というと、私は大学の文学部二年生。銀座は区劃整理をすっかり終わって、どの横丁も広くなり、ほそうされていた。同時に露地がほとんど全部つぶされて、幼時の記憶がよどんでいるような町のくまぐまはすっかりなくなった。そのかわり、ほそうのおかげで下水が完備して、夏も、蚊帳をつらないですむようになった。
私の家などでは、客ののこりもの――浅草あたりではダイガラ屋といって、これを売る商売があるというが、台の殻ということだろう――を、浮浪者にわけてやっていたが、それらがつまりジンギで、晩方には、私のうちの外まわりをすっかりきれいに掃除しておいた。都の役人などは、町の清掃などにはなかなか手もまわらないし、気もまわらないし、金もまわらないらしいので、自警団ではないが、町に住んでいる者がめいめいうちのまわりを掃除した。その頃はまだ銀座には人間の居住の生活があった。だから何といっても町がきれいであった。戦後、ほとんどまったく住んでいる人がいなくなってしまった銀座は、妙にうすよごれてしまった。人が住んでいなければ、家でも、庭でも、どうにもなるものでもない。それと同じで、銀座の戦後のうすよごれ方は、銀座で金をもうけようという、戦後派が出て来たからだ。まだその頃は、ほんとうの「地の者」がいたのだ。今では「地まわり」さえいない。いれば、素性の知れぬグレンタイとやらである。
私は銀座でタカられたことはない。「土地ッ子」だという気持ちが、どこかに出ていたからだろう。私の友人は、銀座の住人ではなかったが、タカられかけた時、かねて私が教えておいた通り、「土地ッ子だよ、おれは」と堂々と言ったら、「お見それしました」と、相手は退散したそうである。
防共協定が出来て、銀座のデパートの窓から、イタリヤやドイツの旗がぶらさがるようになったころから、銀座にもそろそろやみがはやりはじめた。銀座の商人で、そのころ、消費者の弱身につけこむようなことを、真先にしたのはだれだったか知らないが、わたしには本が一番縁が深かったので、銀座裏の本屋で、そういう目にあわされたのが、「やみ」を身近かにおぼえた最初であった。作家や評論家には、戦前戦中の言動の責任追及がなされたが、商人にはとうとうされなかった。しかし銀座の商人にも、戦中、官僚や軍人のおひげのちりを払って安のんをはかった人々がかなりいたが、その頃私は、一兵卒として、外地にひっぱられて行ってしまっていた。(三三・一二)

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