小唄ばやり

――へえ、篤いたね。この節は。料理屋のお座敷にひもうせんをしかして、お客が小唄を歌うんだってね。
と、明治十七年の東京生まれの私の父が晩年私にこう言った。父は昭和二十八年になくなったから、晩作とはつまり戦争後のことになる。戦争後の一般社会のうつり変わりは、私などのような若い者でも、びっくりするようなことが多かったが、あいにく私は、戦前いわばよき時代の花柳界などは、ほとんど知らないですぎてしまったから、その方面のうつりかわりは、比べようがない。だから、ことあらためて父がおどろいていると、父のおどろきに却っておどろかされるということが多かった。
しかしそう言われてみると、なるほど小唄などを、お客がしかつめらしくひもうせんにすわりなおして、あらたまった恰好で歌うのは、たしかにおかしい。そんなとり扱いをうけては、小唄自身てれて、はずかしがっているようなもので、小唄はもともと、そんなものものしいものではなさそうだ。

小唄・端唄・哥沢と並べてみると、哥沢はたしかに歌を聞かせるものだが、小唄は歌とはいいながら、むしろ三味線を聞かせるものだ。自分で三味線をひぎながら、勝手につぶやいていればいいもので、隣りにすわった芸者に、ヨウと声をかけられて歌う、というようなものではなかろう。小唄には派が二百からあるというのだが、二百も流派があるということは、つまり人ごとに勝手放題のものだからで、勝手気ままに、気のむくままに歌っていいものなのだろう。
もっとも勝手放題と言ったって、おのずからワクはあるはずで、だいいち、声のだし方からして、一応のレールはしかれている。洋楽胤や歌謡曲流の歌ぐちでは、初めから小唄にはならない。ことに、江戸小唄なのに、イとエとの発点目がはっきりしなかったりするのが、家元さんにもいるのだから、おどろいてしまう。
元来、日本の芸ごとには、賞めことばがいくつも用意してあって、聞がいい、筋がいい、調子がいい、節廻しがいい、声量がある、枯れている、はばがある、のみこみが早い……おまけに紋付き姿がいいなどというのまである。このくらい用意しておけば、いいかげん音痴でも、どれかにひっかかって拾ってもらえる。義理の聞き手でも、あまり良心に責められずに賞めることができる。まして専門の商売人のお師匠さんが、飽きずに続けさせようとすれば、そんなものかなと、木人にうぬぼれさせるぐらいは、たいして手間もひまもかからない。そんなこんなで、むやみやたらに小唄族が増えてしまった。

しかし、うまいのまずいのと、他人の小唄を批評してみたところで始まらない。小唄そのものが、そんなあらたまっての批評にたえられるほどの大芸術ではない。薄弱な小芸能にすぎない。「小」唄というのだから、どこまでも「小」で、本格的なもの、正統的なものに対して「小」なのである。

それに、元来邦楽というものは、自分はだまって観客席にすわっているだけという、純粋な聞ぎ予というものは、ほとんどない。聞いて楽しむ要素より、自分でして楽しむ製素の方が濃い。
ということは、専門家と素人のけじめがあんまりはっきりしはそうだ。小引の聞き手は、常に自分の出番を待っている人で、いつでも歌い手になりうる人ばかりなのである。
長唄だとか、義太夫だとかなら、習って習えないこともあるまいと思っているが、小唄
てつまずいだけは、とうてい自分にできようとは思えない。あんな短いもので、歌い出し
たらそれっきりのものを、ぴたりときまった歌ぐちで歌えるものとは、どうしても思わない。長いものを何一つ習い覚えていないで、いきなり小唄を始める人をみると、真実、その大胆さに舌をまく。世間にはまったく慰用な人がいるものだ。〈三六・一〇)

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