京のある日

十一月十一二日〈金曜日〉
午後から三千院に行ってみる。
三千院をえらんだのは別に深い意味はない。何年か前に大原の寂光院ヘウィークデーの午後、まさか人が出ているとは思わないので、しずかな大原を楽しもうと思って出かけて行ったところが、しずかどころかおどろく程の人出で、つくづくこりた事があった。それで寂光院は敬遠して、一二千院ならと、思い立ったにすぎぬ。京都では、秋はことに嵯峨か大原が私の心をとらえているからだ。

京都というところは観光都市だと言いながら、道路がひどく悪い。それも毎年同じところを直しているような感じで、我々のような旅人には、去年からひきつづいてまだここを直しているのかと思う程に工事がのん気である。寂光院ヘ行った時には、道路のひどいがたがたと、先がみえなくなるようなほこりとで、行くまでにすでにまいっていたが、その上行きついた先が思いがけない大ぜいの人出で、つくづくこりたのであった。

きょうは多少雨を思わせるような雲がかかっていて、まさかこんな日に三千院あたりに人がいようとも思われなかったので、三千院を選んだのだが、やっぱりだめであった。こもまた人山である。人が山ているという事が別にいやだと言うのではない。部会の繁華街の人波などは平気なのだが、本来、いるとも思えないところが、団体でガサガサしてるのがきらいなのだ。花だろうともみじめだろうと、集まるとすぐ酒を飲んで、それもひとりあるいは数名で、静かに楽しんで飲んでいるのならいいのだが、こういう所に出る人達は必
らず酒を飲むと、衆をたのむというような行動をとる。それがたまらなく不愉快である。
三千山の前の茶店に集っていたどこかの団体客も、やはりその例にもれなかったので、やれやれという気がして、三千院の中にはいる気もなくなってしまった。もともと三千院というような所に、ぞろぞろ人が訪れるというのからしておかしいのだが、このごろでは、つまり行き先はどこでもいいというわけなのだろう。
庭はたしかによかった。京都の寺々の庭を今更ほめるまでもない事だが、東京ならぽつんぽつんと一つ二つしかない庭が、京都はべたべたにそれこそどこにも、かしこにも、広々とした庭がある。この、いい庭の多さということは、やはり京都のひとつの大きな特徴パん乃うと川心う。
三千院がこんな人出なんだから、とてももう寂光院などヘ回る気はない。寂光院はざっとういんやと京都の人も言っている。それで引き返す事にしたが、雨雲がきれてどうやら雨も落ちず、いい日ぐれがたになってぎた。それでは帰り足だからというわけで、石川丈山の詩仙堂ヘ回ってみる事にした。なんぼなんでも詩仙堂に人がいようとは思わない。
ところが詩仙堂の前に行きついてみると、ここもぞろぞろと胸に向い布切を安全ピンでとめた団体客が出てくるところである。ここもまたやれやれであった。しかし幸いなんやに、団体客が波が引くように立ち去った後、そこには五人づれの中年の一組のほかは、われわれだけになってしまった。われわれと言ってもこれは私と、私のゆきつけの宿のおばあさんのご人連れである。山茶花が正に今真盛りで、それもまだまだ無数のつぼみをたくさんにつけている。こんな大きな山茶花の木を私はほかに知らない。夕日がはんなりと詩仙堂にさしてきて、そこでしずかにお茶を飲んだ。
詩仙堂は私の亡くなった父が殊に好んだところで、まだ中学生だった私をここにつれて来てくれて、その時も静かに父と茶をのんだ記憶がある。運よく、ようやくそんな静かな京都の名所に行きあわせた。れいの添水(そうづ)のぱたんぱたんという音が、父と来てから三十何年をヘだてて、昔の記憶通りに聞えてくる。庭に出てみたところが、もとは確かに添水のあったあたりはたんぽだったように思うのだが、詩仙堂の庭から一段おりたところあたりも、きょうみるときれいな庭になってしまっている。詩仙堂も観光客で多少ゆたかになって、たんぼを庭にしてしまったのかもしれない。

石川丈山が詩仙堂に居をかまえたのは、文人の生活ではなくて、実は彼は江戸幕府の隠密であって、京都の御所を見守る為にここに居を構えたのだという話を、ここで父から関いたことを思い出す。その京都の町は、三階にのぼるとよく見えるのだが、きょうは上にのぼる事が禁じられてあった。別にそこから京の町をのぞいて見る興味もないので、一時間ほどぼんやりとした時間をすごして、そこを辞去した。
銀閣寺のそばの宿に帰った。まだ午後五時前である。ここの宿屋に来たのは偶然だったが、先年なくなった老女が、実は私の父の知りびとであったことがあとからわかった。早稲田の楠山正雄さんがここによく泊られ、その紹介で楠山さんの友人だった叔父の池田大伍が定宿にし、さらに私の父がよく来ることになった。そんな事は少しも知らなかったので、ここで聞いてびっくりした。老女は達筆で私の父にあてて手紙を書きそれを私に托した。きょう私が三千院ヘ同行したのは、その娘で、もう相当な中婆さんだが、私の父につれられて鞍馬の紅葉見物などにも行ったという。そんな行きがかりで、私はいつの間にか年に数回来る京都では、まず大休ここに泊っている。いつも帰りが十三時すぎるので、おとうさんとは比べものにならぬ、あんたは「権太」やといわれいわれしている。
きょうは珍らしく夕食前にあんまをよんでもらって、横になりながら大相撲の勝負をきく。ところがこの日若乃花は大晃に負け、つづいて栃錦は若ノ海に負け、両横綱に土がつ
いた。十三日の金曜日でしかも仏滅の日であった。

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