八代湾のほとり

天草をひき上げて、一旦熊本に行き、さらに南にくだって、今度は逆に、九州の西海岸を鹿児島県の阿久根から熊本まで、ところどころ歩きながら、あちこち見歩いた。
黒の瀬戸の潮流を見たり、万葉に出てくる水島だと言われているところヘ行ったり、三太郎峠の一つを歩いて越してみたり、これという目的のない旅であった。もっとも、ぜんぜん目的がないというわけでもなかった。それは折口信夫先生の説による、琉球王朝の出生の地を歩いてみようという計画であった。

このときの九州旅行は昭和十二年春のことだったが、その前の年に折口先生は「琉球国
王の出自」と題する講演をされた。日琉関係についての大胆な推定説で、それを聞いていたわたしにとっては、きわめて印象の深いものであった。
先生は日本の中世において、内地から琉球に向かって武家の族人の集団移動がしばしばあったであろう、ということを推測され、その中で西九州の肥後の海岸ぞいに拠っていた名和長年の残党が、集団で海上に押し出して行き、これが琉球王朝、尚氏となったのではないか、と説かれた。構想の雄大な、目を見はるようなお話であった。

この講演は、北野博美さんの筆録によるものが一部、雑誌「日本民俗」に掲載されたが、
その年、還暦を迎えられた伊波普猷氏にささげられた論文集「南島論叢」の原稿として、先生はその夏、山形県の白布高湯で執筆され、それが全集に収められている。ずいぶん用心深く書いておられるが、要するに倭冠(わこう)の前哨をなす海賊衆ともいうべきものに、琉球国王の出自を惣定した論考だったから、長い年月にわたった沖縄の知識人と先生とのあいだに、ひびがはいったというような結果を招いた説であった。
それはともかく、南北朝のはじめに懐良〈かねなが〉親王を奉じて九州の地にはいってきた名和氏の一党は、八代湾の北頭にある豊福械を根拠にして八代郡、葦北郡の海岸ぞいの各地に配置されていた。わたしの歩いた阿久根から北ヘ、水俣、津奈木、佐敷、田浦などの各地は、みな名和一族の分布した土地であって、九州における南北朝抗争の南朝方の拠点であった。そういう昔をしのびながら、ただそれだけの目的で海道を歩いて行くことは、まことに楽しいことであった。
津奈木太郎峠を西から東ヘ越してトンネルを抜けてしばらく行くと、道は佐敷川沿いの下りになったが、その日は花曇りのうすら寒い日で、つい数日前、天草の西海岸を歩いたときの暖かさとは、うって変わった気候であった。
西南戦争のとき、熊本城攻略に向かった西郷隆盛の軍勢がこの峠を越えるときには、南
国には珍しく雪が降りしきったという。そんなことを思い浮かべながら佐敷の町へはいつたことを、いまでもはっきりと記憶している。 (三七・一一・一二)

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