霖雨

霖雨(りんう)という語は、日本ふうに読めば「ながあめ」と読むより仕方がない、日本の長雨は五月と十月とにあり、秋の長雨をとくに「秋桜」(しゅうりん〉といったりする。
中国での意味は、霖とは「三日以上降りつづく雨」のことだという。それならば百日にもわたって降りつづく長雨を、文字の国中国では何と書き表わしているのだろうか。――何といっていいかわからないほどの、三カ月余りも降りつづいた.長い雨を、わたしは宮古島で経験した。
宮古島の「十月夏」は、雨季に移行していって終わりを告げる。そして昭和十九年は、その雨季が十一月の下旬にはじまり、ときには降りみ降らずみといった調子になったり、ときには風速三十メートルという台風になったりしながらとうとう年を越して、さらに一月、二月と降り、三月のはじめまで降りつついた。その間に空が晴れ上がって、少なくと
も一日太陽が照り輝いたのは、昭和二十年の元日、たった一日きりであった。元旦だけどういうわけか美しく晴れ上がった。――もっともその大事な一日をわたしたちの大隊だけは、敵上陸の公算大なりという想定のもとに練習をさせられた。弾薬を一か所に集積する練習だったが、終わって帰りかけたら、もう日はだいぶ傾いて、そしてまた雨となるきざ
しが、早くも雲の動きに感じられた。
このびしょびしょと降りつづく雨は、われわれの作業に大きなマイナスとなった。しかし一方、フィリピン、硫黄島と進攻する敵からも、雨の中に置き忘れられたように、十月十日の空襲以後、まるで敵機はやってこなかった。そういう戦争の大きな推移を背景にして、島のわれわれの中隊からは逃亡兵が出たり、事故死や病死の兵が出たりした。そしてそうしう暗いいやな思い出は、ことごとく陰うつな島の霖雨の冷たい音を伴奏にしている。
逃亡兵はわたしの分隊から出た。小隊長の当番兵であった、もうかなりの古兵だったが、下士官上がりの准尉の意地の悪い仕打ちに、ふっと夢遊病者のように逃亡してしまった。
そして狭い島の中を四十日余り逃げかくれていた。そして部落ヘ食糧を捜しにきて、よその隊の衛兵につかまった。
戦時中の逃亡は戦線離脱ならば銃殺である。しかし当時の宮古島はまだ第一線でもなかったので、銃殺には処されなかった。そして長雨のあいだに、船で内地の衛成〈えいじゅ)監獄に送られた。そのかわり終戦後はいち早く故郷ヘ帰ったはずである。
虚弱な病兵は、たいていこの長雨のあいだに死んでしまった。みんなで焼いてお骨にした。雨でぬれてなかなか火が燃えず、白い煙ばかりあげている火では、人間のからだはなかなか焼けなかった。
でもまだそのころはそうして焼けたからよかった。やがて敵機がくるようになってからは、その煙が空襲の目じるしになるというわけで、死者はすべて土葬ということになった。(三七・一二・六〉

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