ノミの歌

満州のハエもひどかった。A型パラチフスが連隊じゅうにまんえんして、われわれは使所のガラス窓に紙をはってそれを黒く塗ってハエの行動を封じる、というような素朴な防禦法を講じた。食器を煮たり手の消毒を励行させたりしたが、すべて付け焼き刃で、だめであった。
宮古島のハエに到っては、猛威をふるった。露天に掘った便所が発行場所なのだが、なにしろ薬などはなにもない。息の根をとめてしまうなどということはできなかった。
サンゴ礁のとがりで、かすり傷のような、ほんのわずかな傷ができても、そこへ真黒にハエがたかって血を吸った。追ったくらいでは逃げない。からだをきかさまに頭をつっこんで血を吸うのだから、たちまちにして大きくくずれてきてしまう。栄養失調寸前の肉休だからでもあろうが、実に拭抗力がなかった。終戦になったときは、このかいようで脳んでいる者が中隊の四分の三に達していた。しかも日本軍はハエにたいして、なんの手も打てなかった。

ノミもひどかった。満州の兵舎に長い泌習から帰ってくると、待、に待っていたノミが、ものすごい勢いで襲いかかってくる。ためしに素足をぬっと出すと、秋のたんぼのイナゴのようにおびただしいノミが、ぴょんぴょんととびついてきた。長い野外の生活を終えて久しぶりにゆっくり寝られると期待して帰ってさたのだが、ノミのほうでもわれわれのお帰りを期待していて、とても安らかな眠りにはいることはでまなかった。
睡眠不足は戦力に影響する。しかし、ついにノミの徹氏的な退治はされなかった。
わたしはよく芭蕉の俳諧の一節を思い出しては苦笑いした。

こそこそと、わらじを作る月夜ざし
のみをふるいに起きし 初秋

宵の中からひと寝いりして、目がさめると外はいい月夜である。隣りではまだ起きていて、ごそごそ音がしているのは、わらじを造っているのだろう。目がさめてしまったので、起き出して寝まきをぬいで、縁先でばたばたとふるってノミをおとした。ふと、はだかの肌に初秋の冷気を感じた、というのである。

文学で知っていたこういう生活が、いざ自分の身の上のこととなってみると、文学の夙流気などはみじんもない。もっとも平安朝の清少納言も”さすがに才女でもノミはいたらしい。「衣の下におどり歩きて、もたぐるよにするよ」とノミをにくんでいる。しかし彼女が十二ひとえをふるったかどうかは知らぬ。
川柳だと

のみ一つ。娘盛りをはだかにし

ということになるのだが、兵隊たちがはだかになってばたばたとノミをふるっていても、いっこうに色気もなく殺風景このうえもない。 〈三七・一二・一一)

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